第6回 大和義挙に参加した北村善吉

 文久三年(一八六三)八月十七日夜半から十八日未明にかけ、御所は会津、薩摩兵によって占領され、攘夷派の公卿は入門を禁じられた。重々しい空気の中、御前会議が開かれると町議は一変、天皇は三条実美ら尊攘派公卿の処分と大和行幸を延期の勅旨を発表した。八月十八日のクーデターは成功。ここに尊攘派は京都の政局から敗退、合わせて姫路藩内の抗争までも一層深刻化させることに。
 これより一日早く、土佐勤王党の吉村寅太郎や藤本鉄石らの「天誅組」が公家、中川忠光宮を擁して大和に兵を挙げる。「天誅組の変」である。大和行幸の天皇を擁して回天の事業を一気に断行しようという血気の計画だった。中山宮とともに挙兵した勤王党志士たちは大和五条の幕府代官所を急襲して代官を殺害、大和義挙のさきがけとなろうとしたのだが、これも十八日に行幸中止が発表されて目標を失ってしまう。
 やむなく十津川郷士らとともに、高取城を攻撃したが、周辺の諸藩から動員された討伐軍の前に敗北、リーダー格の吉村は戦死し、志士の面々は辛うじて大阪の長州屋敷に逃げ込んで難を逃れた。
 この大和義挙には、姫路藩中の志士たちも色々な形で関係している。直接参加したのは北村善吉。後、姫路藩士籍に入り、義貞と名乗るが、この頃は士分ではない。花田小川村の百姓の子として生まれた善吉は、物頭で攘夷派の河合惣兵衛宅へ出入りしているうち、城下の呉服町で甲冑を製作していた大高又次郎に紹介される。甲冑製作を手伝いながら、尊攘派の志士たちと交わりを深め、よく時勢も知るようになった
 文久二年、又次郎に従って京都へ出てからは土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎、久留米出身の神官、真木和泉ら各地の著名な志士と交わるようになる。この年、二月には中島永吉ら過激派同志とともに、等持院で足利三代将軍の木像斬首事件に加わり、八月の大和蜂起直前には河内狭山で代官、鈴木其を襲撃、高野山に軍資金を、高取藩に武器調達を談じ込む。しかし、目論見ははずれて結局、手傷を負って敗走。しばらく十津川郷に隠れた後、京都の大高のもとに身を寄せたのであった。
 一方、河合惣兵衛、武井守正らも義挙に加わるべく軍資金の調達に奔走している。記録では家老の河合良翰から軍資金を借り、松本健二郎に渡しているが、結局は参加していない。その代わり、京都にいて幕府の弾圧から逃れようとする三条実美ら七人の公家に京都脱出を思い留まるよう説得、それが失敗すると、「七卿落ち」に随行しようとして逆に後事を託されている。
 天誅組の挙兵とともに、維新への引き金となったのが、今の朝来市で起こった「生野の変」である。生野の変は、十月十三日、先の政変で敗退した尊攘派志士の一人で福岡藩脱藩浪士の平野次郎国臣らが「七卿落ち」の公卿の一人、沢宣嘉を奉じて挙兵し、生野代官所を占拠した事件である。〈つづく〉

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