第9回 親藩の悲劇「甲子の獄」

 尊皇攘夷派に加担した姫路藩士たちの断罪は、元治元年(一八六四)年の瀬も押し迫った十二月二十六日に下された。知行二百五十石、物頭の河合惣兵衛、同六十石の萩原虎六、江坂栄次郎の足元之助、市川豊次、松下鉄馬、伊舟城源一郎の六人が切腹を命ぜられた。当時の武士たちにとって、信念を貫くために切腹することは最高の意思表示であり、武士としての美学があったとはいいながら、志半ばでの自刃は心残りだったろう。しかし、もっと哀れだったのは河合伝十郎、栄次郎の両名。二人は脱藩で罪一等を増して斬首に処せられた。死罪は以上八人。
 刑は即日、執行された。惣兵衛は死にのぞんで顔色一つ変えず、茶を乞い、「ひをむしの身をいかでかは惜しむべき ただ惜しまるる御代の行くすえ」
 静かに辞世の句を懐紙にしたためて死んだ。四十九歳。萩原虎六は介錯人に「私が死ねば眼をえぐって城の西門にかけてくれ。勤王の兵が西から来てこの城に馳せるのを見よう」と遺言したという。二十三歳。壮烈な死にざまだった。辞世は「うたてやな道ある道に迷ふ身の死出の山路の行へをぞ思ふ」。
 松下鉄馬は小刀を喉に突き立てたが、刀が鈍くて死に切れず、検視役の士の刀を借りてやっと喉を突いた。三十歳。
 このほか永田伴正、三間半二、近藤智蔵らは家禄没収のうえ永牢(終身禁獄)で、一門の八人は閉門となった。伴正ら六人は、はじめ備前門内の牢に押し込められたが、慶応元年(一八六五)同志が破獄を計画しているという噂が流れ、新たに築かれた堅固な新牢に移された。
 家名断絶・終身禁獄四人を含め、尊攘討幕派総勢七十八人におよぶという大規模で、厳しいものだった。
 事件は後に「甲子(かっし)の獄」とも「姫路藩士の殉難」とも呼ばれた。牢につながれていた者たちは維新後、許され、新政府の要職についた者もあり、死者たちには官位が贈られた。
 姫路駅北の中心街西、旧大蔵前町(今は十二所前町)の関西電力姫路支店北にある児童公園に黒い石の碑が建っている。ここは、元姫路城内の外曲輪の西南隅に当たり、外堀に面している。堀の西側には船場川が流れ、橋が架かっており、城下町の搦め手口に当たる備前門(福中門とも呼ぶ)があった。この門一帯には藩の牢獄や処刑地があった。
 碑文は「姫路藩勤王志士終焉之地」。裏側には、処刑者の名前が記されている。この碑は「一九四五年の敗戦に伴う占領政策によって除去され、姫路護国神社裏に仮設のまま二十三年を経た後、明治百年を記念して姫路郷友会が姫路市、商工会議所、陸上自衛隊、地元城南自治会などに呼びかけ、現在地に再建した」と碑文にある。また、船場本徳寺(地内町)には志士たちの墓が残る。〈つづく〉

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