第7回 池田屋騒動に散った林田藩士

坂本龍馬と播磨の群像

 政変で身辺に危険が迫った平野国臣は、捕吏の目をくぐって但馬へ脱出、但馬での挙兵計画を具体的に進める。九月二十日、周防国三田尻を経て十月八日には網干港へ。ここで大和義挙が失敗に終わったことを知った国臣は、翌九日、飾万津(飾磨)大町の料亭「大利」で沢卿と会した。強行論を唱える長州奇兵隊総監の川上弥市、筑前秋月藩士戸原継明らに反対して、生野挙兵の延期を熱心に説いたのだったが、「議論より実を行へなまけ武士国の大事よそにみる馬鹿」と過激な歌をつくった河上らの意見に屈し、ついに生野義挙へ突っ走る。
 こうして河上らは、沢宣嘉を奉じ、十日未明、飾万津を出発、高瀬舟で船場川を北上、姫路城を迂回して城下を過ぎ、仁豊野で元近江膳所藩士本田小太郎らと合流する。二日後には、生野に至り代官所を占領すると、軍資金千三百両、米五十石、武器を徴発して勤王の兵を募った。
 初めのうちは、「天照皇大神皇政王集之軍」「勤王之軍隊」などと大書したのぼりを立て、意気上がった挙兵も翌日には早くも沢宣嘉が離脱して四国へ脱出、他の者も河上ら決行派の十三人を残して逃げ出してしまった。「年貢半減」をスローガンに掲げて農民にアピールした挙兵だったが、指導層が崩壊してしまった。さらに、隣接の出石豊岡、姫路藩から鎮圧の軍が出動すると、農民たちは散り散りに逃げ帰る有様となった。そればかりか農民は指導者に対する不信、怒りを爆発させて打ち壊しに走り、大庄屋中島太郎兵衛のように農民に殺される者も出た。
 こうして生野の変は完全に失敗に終わり、河上らは自刀した。奇兵隊から参加した河上らのメンバーはほとんどが二十代ないし、十七、十八歳の若さだった。平野国臣もまた翌年に処刑された。三十七歳。
 「八・一八クーデター」に敗退した長州藩は、この政変を機に「勅命をゆがめる薩摩、会津の陰謀を見逃すな」と反撃の機を狙っていた。しかし、翌元治元年(一八六四)七月十九日、長州藩兵が京都に進撃して敗れ(禁門の変)、四日後、長州藩追討の勅令が幕府に下されると、状況はますます悪化していった。
 さらにイギリス公使オールコックの提唱で、下関遠征の四国連合艦隊(米・英・仏・蘭)が編成され、八月五日には下関砲台を攻撃してこれを占領した。このため長州藩内のムードは一変、尊皇攘夷派に代わって門閥保守派(俗論派)が藩権力を握った。
 日の出の勢いだった尊王攘夷派は、こうした情勢の中で拠りどころを失いつつあった。京都での勢力巻き返しを図ろうと池田屋に集まった志士たちが新選組に襲われるという事件があったのもこの年である。
 祇園祭の宵宮、六月五日の夜、宮部鼎蔵ら志士たち十一人が池田屋に会合した。このうちの一人、大高又次郎は元林田藩士である。西洋砲術と甲州流兵法にすぐれ、とくに革製甲冑の製作が得意で、姫路城下で商っていたことは前に述べた。尊皇の志を抱き、安政五年(一八五八)脱藩して京都に走り、長州の高杉晋作や薩州藩士海江田武二、姫路藩士河合惣兵衛らと国事に奔走した。
 しかし、京都に放火して事態を急変させようという池田屋での会合は、古高俊太郎の自供により新選組の知るところとなった。この後のことは映画やドラマであまりにも有名だ。この会合には又次郎とその養子、忠兵衛も参会していた。又次郎はついに、維新回天の事を見届けることができずに憤死、四十四歳。忠兵衛は捕えられ、六角の獄中で亡くなった。〈つづく〉

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