第12回 姫路藩二百七十年に幕

 追討軍を抑えて戦うという非常事態は避けられたものの、亀山雲平らの必死の嘆願にもかかわらず、姫路藩には厳しい処分が下される。
 「朝敵罪第三等」
 朝敵の第一等は徳川最後の将軍慶喜。死罪は免れたものの、江戸を追われ水戸藩お預けとなった。そして二等は鳥羽伏見戦に参加した幕府方の会津と桑名の両藩。言うまでもなく会津藩松平家は直前まで京都守護職を務めた。尊皇攘夷派を弾圧した罪を問われ、ついには「白虎隊」に象徴されるように、全滅に近い終焉を迎えることになる。そして三等。
 「謹慎したうえで朝廷に城と領地を差し出し、藩主もしくは代理のものが上京して謝罪すべし」というのであった。誠意ある謝罪がなければ家禄は没収、家名断絶という厳しい内容であった。
 そんな事態になったりすれば、藩士は身の置き所さえなくなってしまう。姫路藩では、開城以後、酒井家の家名存続、本領安堵の方策を探るため協議を重ねてきた結果、隠居中の前藩主忠績(隠居して閑亭)に江戸からの帰城を求めて収拾を図るか、もしくは上京して謝罪してくれるよう説得するしかないということになり、雲平は家老高須隼人ら重臣とともに江戸へ向かった。
 もちろん忠績とて、政局の厳しい動き、朝廷方の厳しい態度を知らなかったわけではない。しかし徳川譜代の恩顧からして、おめおめと謝罪するなど言語道断という気分だったのだろう。また、重臣たちが決めた「降伏」を快しとしなかったのか、閑亭は朝廷への謝罪要請には頑として応じず、「姫路藩領の召し上げ」を嘆願するありさまだった。困り果てた雲平らは、酒井家の支族である上野伊勢崎藩主酒井忠強(ただつよ)の弟で弱冠十五歳の忠邦(ただくに)を迎えて忠淳の養子とし、藩主代理として上京させようとしたのだった。
 そのころの姫路藩は、なお佐幕派の勢力が強かったが、勤皇派の三間半二、永田伴正ら「甲子の獄」の謹慎者を解放、佐幕派メンバーを要職から一掃して藩制改革を断行した。慶応四年(一八六八)五月になって、ようやく朝廷はその努力を認め、忠邦の家督相続も許可するとともに、忠淳の罪をも減じるかわりに軍用金十五万両の献納を命じたのだった。
 九月八日には慶応から「明治」と改元された。十一月、姫路藩では全国諸藩に先駆けて版籍奉還の建白書を提出、それまで疑惑の目で見られてきた藩政に活路を見出したのだった。ここに至るmでの亀山雲平らの努力は高く評価される。
 だが、佐幕派だった雲平は失脚、後に松原村(現白浜町)に隠居して、私塾「観海講堂」を開設、第二の人生を子弟教育に捧げ“播磨の聖人”と呼ばれた。「灘のけんかまつり」で知られる松原八幡神社の宮司でもあった。今、神社境内に顕彰碑が残る。
 版籍奉還後、姫路藩知事となった忠邦は、明治四年九月、東京移住を命じられ、旧藩士や領民に見送られて姫路を発つ。こうして池田輝政が最初の姫路藩主となって以降、二百七十年続いた姫路藩政は幕を閉じる。その姫路藩もやがて姫路県からわずか数か月で飾磨県、さらに兵庫県と改まる。
 かつて「西国の備え」「西国の要」として、重要な位置を占めた姫路だったが、今や近畿、関西の最西端の中都市としての現状を見るとき、寂寞の感がなくもない。〈おわり〉

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