第8回 姫路藩に粛清の嵐

 文久から改元された翌元治元年(一八六四)春、尊王攘夷運動の全国的な退潮のなかで、姫路藩には粛清のアラシが吹き荒れた。後に「甲子(かっし)の獄」と呼ばれる弾圧の始まりである。
 きっかけになったのは、紅粉屋の分家又右衛門の暗殺と上級藩士二人の脱藩だった。前述したように、当時の姫路藩は徳川譜代の家中であり、藩主忠績が元々旗本ということで保守色が強く、先進派の動きはごく限られていた。それだけに佐幕派の国家老高須隼人らの追及はし烈を極めた。
 砲術の名手といわれた江坂栄次郎行正は、このとき十九歳。同志の河合伝十郎宗貞とともに脱藩、伝十郎の養父、惣兵衛宗元と勝海舟の神戸海軍操練所に入り、藩吏に追われて土佐藩邸に潜んだが、長州へ脱出しようとしたところを捕らえられた。
 脱藩者の追及とともに、紅粉屋殺害の下手人の捜索が始まった。しかし、容易に知れず又右衛門の先代で領払いとなっていた与左衛門政毅や、親族の海老屋仁平らに嫌疑がかかり、入牢されるものが相つぎ、城下は大騒ぎとなった。
 首謀者の河合伝十郎と武井逸之助は、これを見かねて自首、一切を二人でやったと自首して裁きを待った。
 伝十郎の実父、境野求馬は志士たちに理解があり、密会の座を設けたりもしたが、藩論不統一に憤慨して「尊皇攘夷こそ正義である」と、藩主に直言する上書をしたため、四月二日自宅で割腹した。五十五歳だった。
 求馬は若くして小姓頭も務めた経験がある。家老高須の姉を娶っていたことから、一時は離縁を迫られた。知行五百石の番頭で、家老・年寄に次ぐ重職にあったから、自刃の影響は少なくなかった。多分、その影響を心配したのだろう。藩は病死扱いとし、孫の象之助に名跡を継がせ二百石を与えている。
 次いで、勤王志士の指導者格とみられていた江戸在勤の家老河合良翰が江戸巣鴨の下屋敷に謹慎を命じられた。良翰は屏山と号し、仁寿山校を開き、藩財政を建て直した名家老河合寸翁の息女を娶ってその養子ともなった人。勤王の志厚く、多くの志士とも交わった。維新後は藩大参事に就任、明治九年(一八七六)七十四歳で没した。
 一方、惣兵衛の養子、伝十郎も禁固を迫られた。姫路へ護送された惣兵衛、江坂栄次郎に対する訊問は厳しく、かえって惣兵衛が「貴公らに天下のことがわかってたまるか」とうそぶいたため、ソロバン責めの拷問にあい、骨は砕け、肉破れ、何回も失神する場面があったという。
 両人の逮捕以来、志士たちに対する弾圧は強まっていった。京都で千種卿の臣賀川肇らを殺害した容疑で市川豊次久明をはじめ、栄次郎の兄元之助や、惣兵衛とともに活躍した江戸在番の萩原虎六も帰藩の命を受け神護丸に乗って姫路に帰ったが、親類預けの後、当時、西魚町にあった揚げ屋(武士の末決拘置所)入りとなった。
 余談ながら、姫路藩監獄は西魚町(今の魚町)西詰にあった。ある時期には、隣接する船場川の中洲を「人斬り場」と呼び、処刑場になっていたこともあるという。
 次いで三間半二、杉下鉄馬らも次々獄につながれた。「指揮者は私だ。私だけを処罰して前途有望の士を助けてやってほしい」という惣兵衛の哀訴もむなしく、追求の手は一党のものはもちろん、関係者や親族一門にも及んだ。
 一味に対する処罰は、この年十二月二十六日に下される。〈つづく〉

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