(四)上月城の戦い

いよいよ風雲急を告げる播磨。上月城攻めが始まったのは、羽柴秀吉が高倉山へ陣を進めた天正五年(一五七七)十一月二十七日の夜。黒田官兵衛が先陣、山中鹿之助ら尼子一党を案内役として、その夜のうちに熊見川(今の佐用川)を押し渡ると、支城の福岡、広岡、榎城を攻略、三千余騎で上月城を包囲した。
情勢の急迫に備前岡山の宇喜多直家は弟で、赤松政範の妹婿にあたる掃部介広維を大将として兵三千を援軍させた。この援軍が三石を通って上月に到着したのは三十日正午頃で、下秋里に陣を張った。
秀吉は包囲の兵をさいて迎撃体制をとった。官兵衛を第一陣として正面から当たらせ、堀尾吉晴ら二陣に分け奮戦、下秋里一帯は修羅場となった。このときの模様は、秀吉が戦後、国元へ送った書状(近江下村文書)にこう伝わっている。
「福原城より一里程先に、七条という城候。二十八日押寄せ取巻き水の手取り候、此方が陣取る上之山へ、宇喜多罷り出候、切懸合戦、切り崩し、備前境まで三里の間追討、宇喜多封留のことならず無念に存じ候。」
戦いは日没に至ってやっと終わったが、翌日の上月城攻めはさらにし烈を極めた。水の手を占領された城中では戦意も消え失せ、降服を申し出たが、秀吉はこれをはねつけ、十二月三日総攻撃を敢行した。このため城主政範は、妻ら一族五十人を道ずれに自害、城内に突入した秀吉軍は「城兵全員の首をはね、女子供二百人余りを備、作、播州の国境へ引き出し、みせしめのため子供を串刺しに、女ははりつけにした」(下村文書)という。
上月城の自害谷(地獄谷)と、今も地名に伝えられるほどの悲惨な地獄絵だった。
上月城は尼子一族に与えられ、但馬、播磨の掃討を終えた秀吉は、ひとまず戦況報告のため安土へ向かった。天正6年正月、安土城に登城して信長に年賀を述べると、すぐに播磨へ引き返した。しかし、この間に備前宇喜多城に集結した毛利・宇喜多勢が巻き返しをはかり、再び上月城は宇喜多勢が攻略、直家の家臣、上月景貞が守った。
一足遅れで上月へとって返した秀吉は、二万五千余で来援したが、官兵衛、山中鹿之助らのゲリラ戦法にさんざん打ち破られ、岡山県境へ敗走した。これと同時に、秀吉勢は上月城に四方から火を放って攻めかけた。わずか千五百余の守備隊は火攻めに大半が焼死、自殺した。
景貞の投降を受け入れなかった官兵衛だが、戦後、遺児二人を伴って景貞の妻が頼ってくると、これを憐れみ、秀吉に許しを請うと手厚く遇したという。人柄を偲ばせる話である。
ここまでは上月城をめぐる攻防に過ぎないが、やがて、毛利軍が大規模な軍を催して播磨へ向かい、織田・毛利の全面戦争へ突入する。
吉川元春が諸将にふれ、安芸の吉田を出発。出雲の冨田城を経て美作の高田で小早川隆景と合流したのが四月。軍勢は宇喜多軍一万五千を先鋒に総勢五万にふくれ上がっていた。水軍の兵船七百艘に室津、佐越の海上を警備させておいて、上月城に到着したのが十八日。元春は子の元長らとともに上月城の西北方、太平山付近の平地に陣を布いた。東には天野隆重らの勇将、熊見川の左岸、狼山には小早川軍と三方から上月城を包囲する形となった。
攻守はいまや逆転の様相を呈していた。総大将の毛利輝元も三月十二日には吉田を出発、四月中旬には備中松山城に入り、織田軍の侵攻に備えた。〈つづく〉

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