特別寄稿 軍師官兵衛・番外編 記録にない秀吉の英賀城攻め(三) 三木公平

一向宗布教の基地

 鎌倉時代、親鸞上人によって称えられた一向宗は、僧侶と貴族に独占されていた仏教を一般民衆に解放し、その勢いは野火のように広がっていった。
 「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、その念仏者は極楽往生が約束される。平易なこの教えは、当時の民衆、なかでも農民の心をとらえたのだが、鎌倉時代末から室町時代にかけて、この教えは、仏光寺派、本願寺派に分かれ、本願寺は親鸞の教説に極めて忠実であったにかかわらず、民衆から遠のいていった。
 本願寺は、親鸞の子孫が法主の地位を受け継ぐ教団である。大谷の本願寺に一人の参詣者もない状態にあるとき、八代目法主として登場したのが蓮如上人。十五歳の若い法主である。
 蓮如上人は、廃れきった本願寺を真宗の王座につけることを宿命と心得、生涯の使命として布教に当たった。
 そして、布教の重点を北陸の地におき、この地に門徒組織を確立し、単に農民だけでなく、土豪や武士までも教団の組織に迎え入れることによって大きな勢力となった。
 さらに布教活動は範囲を拡げて行われ、文明七年(一四七五)には蓮如上人の高弟、空善、祐全、順念、善祐、誓元、浄覚の六人が上人の意を受けて播磨の地で布教に当たった。
 蓮如の教えに六世英賀城主、三木通規が深く帰依したことから、一族郎党に至るまでが入信。永正九年(一五一二)には蓮如の孫、実円を院主に迎え、同十二年、英賀御堂が完成、播磨における浄土真宗布教の基礎が確立した。その後、英賀城九世の通秋に至るまで、英賀御堂を通じて本願寺と深い縁で結ばれ、これが信長、秀吉に屈しない原因となった。
 一大勢力となった本願寺は、信長の天下平定に対抗する。そのため信長は、十一代法主顕如(光佐)上人の籠る大坂石山本願寺と戦火を交えるが、この戦いは十一年の長きにわたった。
 信長の石山本願寺攻撃に対し、顕如上人は各地の信徒に対して出兵の応援を求めた。英賀城主三木通秋もこの求めに応じ、城主名代の英賀城四本家の頭、三木源右衛門専時を長に、一族と家系二百余人、信徒五百余人、地侍三百余人、糧兵三千余俵を危急の大坂へ送った。そしてこの戦の結果、専時以下一族の五人、家人ら三百七十人の戦死者を出したのであった。〈つづく〉

〈みき・こうへい〉
 1923年(大正12)姫路市に生まれる。立正大学中退後、応召。46年中国から復員。阿部知二の門をたたき、「仲間」同人に。公務員、学校教師、ルポライターを経て、アジア文化研究所を設立。以来国内、アジア諸国を歩き、執筆活動に従事。主な著書に「参謀辻政信・ラオスの霧に消ゆ」、ブルーガイドパシフィック「タイ」など多数。故人。

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