(二)織田方への帰順

播磨の智将 黒田官兵衛

このころの姫路城は、本丸が東西十八間、南北二十二間、二ノ丸(鶴見丸)が東西二十八間、南北三十間という構えだったが、別に内曲輪には百間長屋と呼ばれる居住空間があった。この百間長屋は、一般の城内長屋とは違い、行人、旅客はもとより流浪、放浪者といえども頼ってきた者を隔てなく収容して面倒をみるために設けていた。官兵衛は、暇があると百間長屋に出かけていっては、諸国からの旅人たちの話に耳を傾けた。もちろん、天下の情勢を聞き出すためにほかならない。周囲が彼のことを「姫路の伯楽(ばくろう)」と呼んだのもこの頃である。
永禄十年(一五六七)、父の職隆が隠居して姫山西方の景福寺山に隠栖した。家督を継いだ官兵衛は姫路城主となり、御着城主小寺家の家老も兼ねることになった。二十一歳のときである。同年、主君、小寺政職は印南郡(現・加古川市)志方城主、櫛橋豊後守伊定の娘、光(てる)を孝高にめあわせた。長子長政(幼名松寿)が出生したのが翌年のこと。
官兵衛が戦国武将としてデビューするのは、その翌年。初陣となった青山合戦がきっかけである。
永禄十二年(一五六九)八月九日、播磨攻略を目論む織田信長と結んだ龍野城主、赤松政秀は三千余の兵力で、置塩城主、赤松義祐とその有力な被官であった御着城主、小寺政職を攻略する手始めとして姫路城攻めを図ろうとする。それを迎え撃つ官兵衛。夢前川に近い千石池の東の小高い小丸山に陣を敷くと、わずか三百余りの兵力で奇襲攻撃を敢行、撃退したという。さらに、毛利方が援軍を派遣するとの報に、姫路西方まで侵攻していた織田軍は撤退を余儀なくされる。
今、青山ゴルフ場の金網越しに一メートルほどの「史跡黒田官兵衛古戦場跡」の石碑と合戦の経緯を記した解説板が地元民の手で建てられている。この初陣戦勝を機に、官兵衛の武名は一気に高まった。
一方、尾張の覇者、織田信長は美濃を従えて岐阜を進発、京都に入った。その年の末から翌年にかけて畿内を平定、天下布武への布石を着々と打って行った。
初陣では、織田方を撃退した官兵衛ではあったが、時勢を聞くにおよんで、次第に考えを変えていったのであろうか。
当時、播磨の諸大名は、播磨から中国侵攻を目論む織田と山陰、山陽十カ国を支配して大いに意気上がる毛利の間で帰趨を迷っていた。こうした中で、官兵衛は次第に織田方に属する有利を感じ取っていった。毛利方と友好関係にあった主君小寺政職を説き伏せると、天正三年(一五七五)七月、自ら使者となって京都の相国寺で信長に謁したのだった。「一日も早い播磨入りを」というわけである。
羽柴秀吉と官兵衛が初めて出会ったのは、天正五年、新築成ったばかりの安土城内であった。そのころの秀吉は、北陸路で一揆鎮圧のため滞陣中、主将の柴田勝家との意見の食い違いから近江国長浜へ引き上げ、信長の怒りを恐れて謹慎していた。
秀吉が陣を払って帰国したのは「敗戦を見越して、ドロをかぶるのを避けた」とする史家もあるが、理由は明らかでない。それはさておき、信長の呼び出しで恐る恐る城中へ伺候すると、信長は意外に上機嫌で「紹介しておきたい人物がいる」という。官兵衛であった。
こうして秀吉、官兵衛の初会見となった。ときに秀吉は男盛りの四十一歳、官兵衛は九つの年下。会見の模様を吉川英治は「新書太閤記」の中で、「英雄、英雄を知るというか、一会の会談は秀吉と官兵衛とを百年の知己のように深く結んだ」と記している。官兵衛は、信長に「中国攻めのときは、是非羽柴殿を大将に」と進言、秀吉には「先導つかまつる」と約束した。〈つづく〉

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