(八)荒木村重の造反

 三木城の最も頼みとする有力な支城、神吉と志方城が落ちると、寄せ手の大将、織田信忠は京都へ引き揚げ、残った秀吉は八千の軍勢で三千五百人が籠もる三木城を包囲した。諸将を四十カ所近い付城、砦に配置し、付城と付城の間には複柵を設け通路とし、城内と外部を遮断した。総延長十二キロにおよぶ包囲の陣であった。こうして三木の兵糧を断つ「干殺し」の孤立化作戦は開始された。
 「播磨鑑」によれば、寄せ手の衆は、天正六年(一五七八)七月、信忠が帰国後、城の東北東の久留美庄平井山に付城を築いて秀吉の本陣とし、さらに翌年四月には南側にも新たな付城を築いて包囲を厳重なものとした。この平井山と中村間の山には、後見役の竹中半兵衛重治を配した。
 半兵衛は美濃国菩提城主の子として生まれた。斎藤道三の子の竜興に仕えたが、傲慢な主の態度に怒り、策略をもって稲葉城を乗っ取ったという知略の人。後に三顧の礼を尽くした信長に属し、秀吉の中国攻めに参謀役として参戦する。いわば軍師としては官兵衛の先輩にあたる。二人が初めて出会ったのは、秀吉の播磨入りのときである。
 三木城包囲網は、与呂木村上野に羽柴小市郎、栗山源之丞、久留美村山上に堀尾吉晴慈眼寺山城に有馬法印、細川荘中村、西村に荒木村重と名だたる織田方の武将を配置、吉田村には参謀、竹中半兵衛の名前が見える。が、官兵衛の名前はどこにも見当たらない。ずっと後方の御着(姫路市)あたりに陣を敷いていたと考えられる。
 一方の三木城。籠城戦は支援部隊の到着を待って戦うのが常道とされていたが、鉄壁ともいえる包囲網に、頼みとする毛利や吉川の支援部隊はおろか、兵糧も入城を阻まれる形になっていた。
 平井山の長陣は、依然、難攻の三木城を包囲したまま、膠着状態にあったが、裏面の外交工作が着々と進められていた。いうまでもなく、毛利方の宇喜多直家に対してである。ここで、初めて官兵衛が登場する。その使者であった。
 初めのうちは「羽柴筑前、播州ヨリ罷奏越サレ、宇喜多御赦面ノ筋合甲シ合セ候間、御朱印ナサレ候様ニト言上ノ処、以テノ他御不満ニテ、御諚ヲモ伺ワズ示シ合セノ段、曲事ノ旨仰セ出サレ、即チ播州へ追還サレ候也」(信長公記)と、激怒していた信長も、秀吉の説得で直家を許した。
 こうして官兵衛の策が実り、三木城攻撃が容易になった。しかし喜びも束の間、二か月後、今度は旗幟不鮮明だった荒木村重が、突然、細川中村の陣を払って領国へ帰ると、摂津有岡城に籠もって信長に反旗を翻した。十月二十一日のことである。荒木の領国は、大坂の石山本願寺と三木、、毛利の三方を連絡する絶好の要路に当たる。信長にとってはショックだった。秀吉にしても同様で、単身、有岡城へ出向いたりしたが、村重の意志が変わらないと分かると、信長に請うて包囲攻撃することにし、三木にとって返した。
 この日、三木城では軍議が開かれた。秀吉軍の動揺に乗じて、本陣へ奇襲攻撃をかけよう、というのであった。こうして両軍最初の本格的な合戦といわれる平井山合戦は二十二日卯の刻(午前六時)に開始された。〈つづく〉

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