(一)姫路城に産声上げる

播磨の智将 黒田官兵衛

応仁の乱(一四六七)で赤松一族が復帰してからも、十六世紀中期にかけて、播磨では戦乱が絶えることなく、麻の如く乱れる戦国時代の様相を呈していた。この間の略史をみても
▽但馬守護山名政豊が播磨に侵略(一四八三)赤松政則が政豊と生野の真弓峠に戦って大敗(同)
▽浦上則宗が政則を追放し、山名と播磨に戦う(一四八四)
▽政則が山名軍を姫路書写の坂本・英賀で破り(一四八六~八八)、播磨、備前、美作三国を復す(同)
▽政則の死後、養子の義村の家臣ら、分裂して戦う(一四九九)
▽浦上村宗が義村を室津に幽閉し自殺させる(一五二一)
▽但馬の山名誠豊が播磨に侵略(一五二六)
といった具合で、肥沃な播磨野の争奪は果てしなく続くのであった。
当時の播磨は、西播では置塩城(姫路市夢前町)を本拠とする赤松満政(政村)の死後、義祐―則房と受け継がれるが、龍野城主、赤松村秀―政秀が実権をにぎり、東播では三木の別所氏の覇権が確立していた。赤松幕下の御著(御着=ごちゃく)城には小寺氏があり、この家から小寺官兵衛、後の黒田如水を生む。
戦乱時代を通じ、「知謀の武将」と言われた官兵衛孝高は天文十五年(一五四六)十二月二十九日、姫路城主、小寺美濃守職隆の嫡男として姫路城に産声をあげた。その日は、密雲が城の屋上を覆っていたので、家人たちは「英雄の誕生、家門繁栄のきざしに違いない」と喜び合ったという。母は明石城主、明石備前守正風の娘で、祖父の正風は、隠日斉と称して関白近衛植家父子に歌道を教授したほどの文化人だったというから母の明石氏も歌道をよくした。
小寺氏の祖は近江国黒田村(現・滋賀県長浜市)に住み、黒田氏を名乗ったが、永正八年(一五一一)、山城国船岡山の戦いで、軍令に背いて先駆けしたため、将軍、足利義殖の怒りを買うことになり、近江国を離れて備前国邑久郡福岡村に住んだ。ここもやがて守護職赤松家の家老、浦上村宗が反乱したため、孝高の祖父重隆の代に播磨に逃れた。播磨でも守護職の勢いは衰えるばかりで庶流三十六家の豪族が国内二百余ヶ所に城砦を構築して割拠し、互いにけん制し合っていた。とりわけ実力を持っていたのが、竜野の赤松政秀、三木の別所、御着の小寺氏などであった。
重隆は、はじめ油売りなどをして食いつないだが、享禄三年(一五三〇)御着の小寺則職に仕えた。各地の戦で鳴らした歴戦の雄で、しかも政治力が備わっていたのか、めきめき頭角をあらわし、やがて小寺家の執事、八代道慶のあとをついで御着の出城である姫路城の目代となった。天文十四年、孝高誕生に先立つこと一年である。
幼年時代の孝高(幼名万吉)は、寺に入って書を学んだり、長じてからも武将の子というより文学青年で、母の感化を受け和歌、連歌などを好んだという。戦乱の世には珍しい悠々自適の生活だったが、この学問が後に毛利か織田か、二者択一に際し、正確な判断をもたらすことになる。
しかし、母が、ついで重隆が死に、家督が父、職隆に譲られた頃には、もうひとかどの武将に成長していた。〈つづく〉

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