(三)三方攻め

織田方の播磨侵攻計画が、官兵衛らの帰順で着々と進められていた頃、毛利方は巻き返しを図るため、天正四年(一五七六)、浦上宗勝の兵五千をして海路播磨に侵攻、英賀ノ浦(須磨区)に上陸すると、小寺の拠る御着をうかがう気配をみせた。しかし、戦上手の官兵衛は、わずか五百ばかりの兵の背後に旗指し物を持たせて、織田方援軍を装うという巧妙な戦法で蹴散らしてしまった。
とは言いながら、小寺以下の播磨の諸大名とて、心底から織田に帰服していたわけではなかった。勢力の強そうな方へ身を寄せて情勢をみるというのは、戦国の世の習いであり、力の弱い諸豪族が生き延びる手段でもあった。このため、天正五年の初めから毛利・宇喜多の連合勢力が、播磨侵攻の動きをみせはじめると播磨の諸勢力は動揺、板ばさみの官兵衛も楽観できない情勢となった。こうして信長は、中国攻めの軍を繰り出すことになる。
総大将に任じられた羽柴秀吉の兵馬は十月二十三日、西下を開始した。鉄砲、槍、小荷隊と続く七千五百余の軍勢は山陽道を一気に播州境に達し、夕暮れ迫る頃には、加須谷(加古川)の糟谷武則の館に入った。ここで秀吉は官兵衛ともう一人、上月城の悲劇の武将として知られる山中鹿之助幸盛の出迎えを受ける。片や秀吉の後には、維幕にその人ありといわれた智将、竹中半兵衛がいた。「二兵衛」と呼ばれる名参謀。
翌日、官兵衛のすすめで姫路城本丸に兵を癒した秀吉は、すぐに行動を起こした。まず、帰服している播磨の諸大名から人質をとり、三木の別所氏に預けると、楽市楽座の触れを出し、但馬攻めの兵を出すといった具合だ。
戦端は十一月、但馬路で開かれ、秀吉軍は生野から攻め入り岩州、竹田、八木の三城を落として、たちまち但馬を平定すると、二十七日には佐用城(福原城)に攻めかかった。
佐用郡には、赤松蔵人大輔政範の上月城を中心に、佐用に福原藤馬允則尚の福原城、平福に別所太郎左衛門定道の利神城があり、ほかにも赤松一族の小城や砦が方々にあったが、ことごとく落ち、竹中、黒田の先陣は福原城を目指して城正面の高倉山へ押し寄せた。ここで官兵衛は三方を囲み、一方を開けて攻撃するという奇略を用いた。
作戦が図に当たり、守備軍は囲みの開いた方へなだれを打って逃走した。守将福原主膳助就もついに踏みとどまれず、弟の伊王野助光、家老の祖父江左衛門とともに兵に紛れ脱出を図ったが、途中、官兵衛の家臣、竹森新次郎と秀吉の元家人、平塚三郎兵衛為広に要撃され、三人とも殺された。この三方攻めには理由があった。攻撃前、為広が黒田の陣へきて「再び秀吉に仕えたいから口添えを」と頼んでいた。官兵衛は為広に手柄を立てさせる帰参もかなおうと「三方から攻めたてると敵は必ず明口から逃走する。その方は背後に待ち伏せ、落武者から目ぼしい将を討って手柄にせよ」と教えた。指図通り手柄にした為広は、願いがかなって、秀吉に再び召し換えられ、後に美濃国で一万石を食む大身に出世した。官兵衛の人となりを偲ばせる逸話である。
秀吉は本陣を高倉山頂に進めたものの、福原城正面からの攻撃を避け、蜂須賀正勝の三百騎を搦手の釜須城へ向けた。釜須城を守っていた利神城主、別所定道は降服、応援にかけつけた則尚の弟、大町範仲も退却して大撫山麓で敗死した。この間、福原城主、則尚は高倉山奪回を策して城を出たが、鉄砲隊に阻まれて断念、城に火をかけると幕山にある福原家の菩提寺、高雄山福円寺に入り、十二月一日夕、一族郎党五十余人とともに切腹して果てる。そしていよいよ史上有名な上月城攻めが始まる。〈つづく〉

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