(六)播州平野に大軍対峙

天正六年(一五七八)、ついに三木城の攻撃を開始した秀吉ではあったが、名代の堅城。後年、江戸期の軍学者でもあった山鹿素行が城跡を調査したところでは、城郭は本丸、二ノ丸、新城の三つの曲輪からなり、塁壁を高くし、南北と西の三面には空濠をうがっていたし、反旗を翻して以降、東南の兵山に鷹ノ尾の出城を築き、宮の上には二塁を増築、鉄壁の構えだった。
力押しすれば犠牲が多くなるばかりと判断した秀吉は、ひとまず官兵衛らの勧告どおり本陣を姫路の西方、書写山の十地坊に移し、作戦の練り直しにかかった。
官兵衛や竹中半兵衛らを交えた軍議では、犠牲が多いと予想される力押しより、東播の諸城を一つずつ攻め落とし、三木城を丸裸にし、兵糧の搬入を妨げた上でじっくり攻めるのが得策、と意見がまとまった。
四月三日、まず野口城(加古川市野口町)攻めが始まった。しかし、野口城は四方が沼田で、寄せ手は足をとられて苦戦。大事な士気にかかわる緒戦であり、ここは何としても短期に攻め落とさないと、隣接の諸城から援軍が駆けつけないとも限らない。秀吉は自ら馬廻り三百余騎を率いて陣頭指揮に乗り出し、草木を刈って沼田を埋め、三日三晩攻め抜いた。
「とかく寄せ手四方に満ち、(城方は)唯、手を空くして秀吉の勇猛を恐れける」(播州太閤記)といったありさまで、ついに五日、さしもの野口城は落ち、城主長井四郎左衛門政重は降伏した。
兵を休める秀吉のもとへ、形勢を逆転させかねない報せが届いた。小早川隆景、吉川元春ら毛利の精鋭六万六千もの大軍が岡山県境から上月城へ攻めかかったというのだ。わずか八千足らずの兵力で対抗できないのは自明の理。秀吉は半兵衛を安土の信長のもとへ派遣して援軍を要請。とって返した半兵衛と別所重棟に五千騎を預け、三木城の押さえとして残すと、自らは書写山に陣取って援軍を待った。
信長は先発の摂津有岡城主、荒木村重に続いて、長子信忠を総大将に、筒井順慶、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀、佐久間信盛らの諸将に出陣を命じた。そして五月一日、先発の荒木村重が書写山に到着すると、秀吉はすぐさま、上月城救援に向かい、城の東、高倉山に陣を張った。
秀吉軍は、加古川に残した兵を差し引くと、村重の将兵を合わせても、総勢一万騎ばかり。これに対する毛利軍は陸上軍として総師輝元の二万八千余、吉川元春の二万三千余、宇喜多直家の一万五千余騎。海上軍として七百余騎がある。さすがの秀吉も手が出せない。加勢の味方が到着するまで毎夜、高倉山から佐用、三日月の山々にかけてかがり火をたき続け、昼は無数の旗や幟で大軍に見せかけ、城中に声援を送った。だが両軍は対峙したまま、なかなか動かなかった。
両軍の間に小競り合いが始まったのは五月上旬。毛利の鉄砲隊三百人が高倉山の秀吉本陣を急襲、これに将兵、足軽たち三百余人が応戦した。また、毛利方は忍びの者二十人を使って、秀吉の営に忍び込ませて撹乱を図っている。織田との全面戦争に備えて、毛利方は大砲まで持ち出しており、五月十四日には上月城を砲撃したと記録にある。この時、城の櫓が各所で破壊され、城中には多数の死傷者も出たという。余談だが、この砲弾は二百年後の宝暦年間、上月城二ノ丸跡から掘り出されたが、重さは約五百匁(二キロ)もあったという。
やがて播磨野に、到着した織田方の援軍、滝川、明智、筒井らの二万、さらに北畠信雄、神戸信孝、細川藤高、佐久間信盛らの軍、また信忠、丹羽の三万の兵が相次いで加古川に到着。織田と毛利の大軍は、一触即発の危険をはらんで播州平野に対峙した。
この間、官兵衛が陣を布く牛堂山国分寺(現・姫路市御国野町)に三木城の別所長治が押し寄せた。堂舎に火をかけ、巨大な四門、諸堂を焼き払ったりした(播磨鑑)。兵力の少なかった官兵衛もなす術がなかったようだ。〈つづく〉

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