(七)勇猛できこえた神吉民部

播磨の智将 黒田官兵衛

 播磨路に対峙した織田と毛利の軍だったが、どちらも動きをみせず、膠着状態が続いていた。
 実はこれには事情がある。一つには織田の援軍が、軽輩の将と見くびって秀吉の命を聞くことを好まず、とりわけ荒木村重が毛利方と、毛利方の宇喜多直家が織田方とそれぞれ気脈を通じ、いつ寝返りするか分からないという危惧が首脳部にあったからである。間もなく、それが現実となり、そのために官兵衛は苛酷な運命に翻弄されることになるのだが…。
 思案にくれた秀吉は六月十六日、わずか五十騎を従えるだけで密かに陣中を抜け出ると、深夜の山陽道をひた走って京都へ帰り、信長に打開策を仰いだ。
 これに下した信長の判断は「今は上月城を捨てても、三木城を攻め取り、織田の威力を示す方の実を取った方が良策」というものだった。秀吉には「上月城を放棄して高倉山を撤退、別所攻略に迎え」と命じた。
 京都を出発、途中、加古川に立ち寄って信忠にそのことを言及すると、秀吉は高倉山へ帰陣した。
 この秀吉軍の高倉山撤退の際、両軍で初めて本格的な戦いが行われた。撤退を察知した宇喜多の将、三村三郎左衛門が六月二十一日払暁、小早川隆景の猛将、井上景家とともに、熊見川畔のヤブ陰に兵を伏せ、秀吉軍の通過を待ち、突然、鉄砲で射撃を開始した。
 機に乗じて、吉川元春の武将、宍道正義も兵三百を繰り出した。一方、秀吉方は神子田正治が二、三千の兵力を投入して救援に向かい、戦いは秀吉の思慮とは逆に膨れあがり、熊見川を隔てて矢戦が行われた。しかし、この戦いは織田方の荒木、毛利方の宇喜多が消極的だったことから決戦に至っていない。
 上月城を見捨てて姫路へ引き揚げた秀吉は、再び、三木城の別所攻略に転じる。まずは有力な支城の一つ、神吉城(加古川市、現・常楽寺)への攻撃を開始した。
 城主は勇猛できこえた神吉民部太輔頼治。二十九歳。別所の一族で、神吉荘一万石の領主である。もちろん別所に味方して城内にこもって激しく抵抗する。寄せ手三万余に対し、城兵はわずか千八百余。だが、この城には三木城から一騎当千の猛将といわれた梶原道庵、小寺主馬助、柏原治郎右衛門、長谷川権大夫、中村壱岐などが応援にかけつけている。力攻めにもなかなか落ちない。
 そこで、織田方の佐久間信盛(一説に明智光秀)が講じた作戦は、調略で城内の勢力を二分するというやり方。民部の叔父にあたる神吉藤太夫が戦いにまぎれて、民部の首をはね、城主を失った城は七月十六日、わずか一カ月の攻防戦で落ちた。
 「播磨鑑」は、民部の勇猛ぶりを「重代の太刀菊一文字を引っ下げて城門を出ると、宇野、神出、柏原、梶原の諸将も続いて斬って出、敵兵の中におどり込むとたちまち三十騎ばかりを斬り伏せ、追い散らした」と述べ、「あっぱれ大剛の大将よな」と敵味方ともに感心したと言っている。さすがの民部も、秀吉軍の智謀にはかなわなかった。城方を裏切った藤太夫のその後は「助命され、備前の国へ立ち退いたが、子孫は大坂へ行き、備前屋と名乗り商人になった」と伝えられる。
 次いで、秀吉は七千五百余騎を率いて志方城攻めにかかる。城主は官兵衛の妻の兄である櫛橋左京亮伊則。急坂を利用して頭上から弓、鉄砲を射かけ、寄せ手をさんざん苦しめたが、城中に疫病が流行って、戦意を喪失したこともあって八月十日、伊則は兜を郎党に持たせて山を下り、降伏した。端谷城(神戸市垂水区)、高砂城(高砂市)も相次いで落城、秀吉に背いて戦う構えをみせた鎌倉時代の名刹、峰相山鶏足寺(姫路市石倉)も官兵衛に攻め立てられ、七堂伽藍ことごとく焼失した。今は史書「峰相記」に当時の隆盛ぶりが伝わるばかりである。〈つづく〉

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