(九)官兵衛、有岡城に幽閉

播磨の智将 黒田官兵衛

 三木方の先陣は別所吉親の率いる将兵二千五百余。城を出ると秋霜を踏み、志染川を渡って長屋村に出る。ここでは鶴翼の陣を張り、平井山から出てくる秀吉軍を迎撃する体制をとる。第二陣には長治の弟、小八郎治定の七百余騎が続く。
 まずは吉親が久留美庄正平寺にあった中村一氏に攻めかかったが、ねらいすましたように、秀吉は、兵五百余を向かわせる。これを見て、吉親は東へ転じ、援兵と斬りむすびながら、秀吉の本陣へ向かった。後陣の治定はさらに東へ迂回、与呂木から山路つたいに本陣をつこうとした。夜が白々と明けかけると長屋村から与呂木村一帯は、山河を血に染める修羅場と化した。結局、功をあせった三木方の平井山本陣急襲という奇策は失敗に終わる。それどころか、名だたる武将三十五、兵七百五十余人を討ちとられ、吉親は命からがら城内へ逃げ帰った。敗因は、三木方が士気上がるあまり、秀吉の智謀と兵力を過小評価したというのが定説になっている。
 大包囲網内にありながら、三木方の士気がすこぶる盛んだったのには、万全を期したはずの秀吉の包囲にもかかわらず、城内への兵糧搬入が密かに行われていたせいとされる。
 伊丹・有岡城の荒木村重や英賀城(姫路市飾磨区)の三木通秋らが、かわるがわる糧食を運んでいたというのである。
 三木を落とすには、荒木村重を亡ぼさねばならない。そう決意した信長は、荒木退治を宣言すると、自身も山崎まで出馬したのが十一月。
 これより先、秀吉は官兵衛を村重の居城、有岡城へ派遣している。村重が信長に背いて有岡城に籠ると、御着城主、小寺政職も反旗を翻した。このとき、官兵衛は政職の説得に当たったが「村重との盟約で毛利に味方した。村重さえ離反を思いとどまるならこれに従う」という。官兵衛にしてみれば、小寺は主家である。敵味方になって戦うには忍びない。また、戦国武将らしい村重の武勇も惜しんでいた。
 こうして官兵衛は単身、有岡城へ向かう。一身の危険を顧みない官兵衛であった。だが、命をかけた説得も裏目に出、官兵衛の智略を恐れた村重のために城内の土牢へ幽閉されてしまう。
 家臣、栗山善助らにより救出されたのは有岡城が落城した翌天正七年(一五七九)十月。実に一年近くもの間、牢内に閉じ込められることになる。
 この時の話であるが、官兵衛との音信が長らく途絶えたため、村重方に寝返ったと勘違いした信長は、人質として預かっている官兵衛の嫡男、松寿丸(後の長政)を「殺してしまえ」と秀吉に命じたのだが、秀吉は十歳になったばかりの、松寿丸を哀れみ、竹中半兵衛に頼んでかくまってもらう。
 一方の官兵衛といえば、長い獄舎暮らしで、生涯を不自由な足で送ることになってしまう。これは後の話。
 天正六年はこうして織田軍が有岡、三木両城を包囲したまま年を越す。
 新年を迎えた三木城では、平井山合戦で痛手を被ったうえ、食糧の搬入がとどこおり、ようやく籠城将兵に飢えの兆しが見えてきた。しかし一月に英賀城から加勢の兵とともに、食料が送られてきたし、三月には毛利氏から魚住、高砂城を経て食料が送られた。このため秀吉は兵站地になった城攻めにかかる。
 四月十二日、信忠は再び播磨に出陣すると、秀吉に命じて三木攻めの付城を前方へ移し、自身は御着城攻めにかかり、付近に火を放つ。一方、秀吉は一千余騎で淡河攻めにかかる。城主、定範は優れた戦略家として、また豪胆できこえた武将。攻め口に落とし穴、逆茂木をつくって備え、背に竹槍などを結び付けた裸馬を放つ「ひん馬放ち」の奇策で秀吉軍を苦しめたが、多勢に無勢。「もはやこれまで」と城に火を放ち、夜陰にまぎれ脱出、三木城に合流した。のち大村・平田の戦(九月)に敗れて自刃する。〈つづく〉

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