バス運賃の精算機

私が入社したのは64(昭和39)年。しばらくして所帯が少し⼤きくなり、硬貨計数機と⾃動販売機だけではやっていけなくなりまして。⽯⽥進という当時の常務がなかなかの哲学者でね、「営業開発部をつくるべきだ」と⾔って、私も含めて4⼈ほどで国栄商事に発足させたんです。

何をすべきかと世間を調査していくと、当時のバスは運転⼿と⾞掌のツーマンで運⾏していて、運賃がどんぶり勘定だったり⼈件費も⾺⿅にならないということでワンマンバスになってきた。それじゃあ、運賃の精算機器を作ってみようと。

それからコインロッカー。当時の駅舎にあった⼿荷物預かり所は、国鉄のOBが業務に就いていて、混雑したりで⼤変だったという状況に⽬をつけました。試⾏錯誤ですけどね。例えばバス精算機なんかは、何億もの開発投資なんかできんからね。だから硬貨計数機を5段に積み重ねて、直径の⼤きな硬貨から順番に落としていって選別し数えるようにしたり。⾊々と失敗もしましたな。コインロッカーも故障して国鉄から⽂句⾔われたりね。

〝求める⼼〟には失敗も付き物。無い⾦と少ない⼈数で細々とやってきたけれど、失敗しても社内で叱ったり、叱られたりということはなかったですね。

そんなことで、これらは会社の利益にあまり貢献しなかったけれども、⾃社製品の幅を広げるということでは役に⽴ったんじゃないかと。いろんな情報も⼊ってきたしね。

そうこうしているうちに国内でかなり紙幣が流通してきた。国栄機械は紙幣計数機の技術が全くなかったので、68(昭和43)年に東京の蒲⽥にあった三功紙幣計算機を買収しました。⼩さな会社だったけれど、その技術はあったので、従業員も⼟地も建物も含めて1億円くらいでした。その時の1億は会社にとってかなり⼤きな⾦額だったと思います。

そこは汚い会社でね。当時の私は東京勤務だったから、時々その会社を⾒に⾏っていてね。こんな汚い会社、誰が⾏くんかなと思っていたら、「お前が⾏け」と⾔われて。しょうがないわね。

その会社、⼿持ち資⾦が100万円ほどしかなかったかなぁ。給料払ったら無くなってしもてね。明⽇、明後⽇の⽀払いが出来なくなって、国栄側に「⾜らんから黙って送ってくれ。責任は俺が持つから」っていうところからのスタートでした。就業規則もない、訳の分からん会社だったから、型通りの事をしていたら上⼿くいかなかっただろうね。苦労したけれども当時私も30歳すぎだったから、失敗しても全然怖くなかったね。これ以上落ちることもないやないかということでね。

⾦が無いんで新しい製品を作るのは⼤変だったけれども、その中に⼀⼈、電気の天才がいまして。当時は⼤きな会社ならデジタルメーターを作れていたけれど、三功はアナログ式だった。すると、その天才が「デジタルにしましょう」とやってくれてね。これが良かった。デジタル表⽰の紙幣計数機とパチンコの⽟貸し機がヒットし、2年間で⽴て直すことができた。 (つづく)

尾上壽男(おのえ・ひさお)昭和10年姫路市生まれ。34年中央大理工学部卒、36年に国栄機械製作所(現・グローリー)入社。平成元年に社長、13年に会長に就き、26年から同社名誉会長。姫路商工会議所会頭、姫路市教育委員、兵庫県公安委員、姫路観光コンベンションビューロー理事長などを歴任。17年、旭日中綬章受章。

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